2018年9月20日木曜日

③ 「伝えたいこと」



登山をすると
山岳民族の事を考えます。


先日
大分県日田市と福岡県八女市の県境に位置する山
釈迦岳へ

余り人が入っていないせいか
整備も行き届いておらず
ありのまま自然のまま

とても自然本来の美しい風景ばかりでしたが
同時に伸びた植物のおかげで道が分からず...
危うく遭難しかけてしまったんです。


ばっちり登山着を着てたかだか5時間程
下山近くにはもう泥だらけ
最後の方には「早く荷を降ろしたい...」そう思う程に
もう格好なんて気にならなくなっていました。


きっと同じような
過酷な自然環境の中

山岳民族の方々は
沢山の銀装飾のジュエリーや
重たいであろう天然素材の服や頭飾りを
肌身離さず身につけ
滑りやすい靴や手作りの草履にも負けず
農作業や山越えをしたりしていたのだろう。

と登山もしながらふと、想像しました。


過酷な中でも装う(=生きる)
という事、
また、魅せる飾るという事へのどん欲さや執着の様な
あっけらかんとした正直さ

その中からうまれる力強い物達に
改めて強く惹かれます。


山岳民族のつくるジュエリーがなぜこんなにも
かっこいいのか
力強いのか
少し解った気がした出来事でした。



まだまだ

装い(飾る美)と民藝(用の美)
について勉強が足りません。

まだまだ勉強しつつ経験しながら


私自身も、
原始的なもの
環境、人、製法、文化、目的、暮らしからうまれる美しさ
人の本能に近い有機質な刺激
を通してきっと私たちが忘れかけているであろう幸福感(豊かさ)
や考え方やあり方を考えるきっかけづくりを
伝える=非言語の記号(メッセージ)
として作り続けていく



原始的なもの(美)への憧憬
自然の営みの模倣
普遍的な洗練
を心にとめ
そして追い求めながら



いつも近くに自然を感じ
自分自身や暮らしに溶込むような
そんな物達を皆様へお届け出来たらと思います。




支離滅裂となってしまいましたが、
久しぶりの独り言でした。
お付き合い頂きありがとうございました。






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② 「核となるもの」


では
”自分自身の核とはなんだろう”

と掘り下げる


原始的なもの(美)への憧憬
自然の営みの模倣
普遍的な洗練


となりました。


この核が

”用の美”

更には

”山岳民族”



へと交わり繋がるんじゃないか


いや自分自身つなげたい
理由が欲しいだけかもしれませんが...笑



以前出た
装い(飾る美)と民藝(用の美)は相反するのではないか
という答えから変化した瞬間

ああ、なんだか少しすっきり




”原始的なもの(美)への憧憬”
自然に近い元々の姿
素朴であり未開発、少し野蛮さも併せもったその様
作為ではなく無心


自然には敵いっこない。
私はそう思います。

一歩森へ入れば不規則に絡み合う木の蔓
植物の鮮やかなコントラスト
美術館よりももっと自分の感性を刺激してくれる要素が沢山転がっている。

そして自然と共に暮らす人達(山岳民族)
その人々から作られる物

どれも原始的で美しい
今の自分自身にはとても出来ない難しい感覚と感性


きっと
民藝も近いところにあるのだろうな。


”自然の営みの模倣”
自分自身の暮らしもそうでありたいなと
最近良く思います。
そして自分の夢

より自然の中で暮らし
原始的なものを使い
受け継がれた暮らしをしたい


人間ですから
自然を生み出す事は出来ませんが、
憧憬や愛情から

模倣する
より自然に近づく

事は出来る
と思います。


そこから
私が惹かれる
山岳民族の方々につながると思うんです。


カレン族が最初にデザインし作ったビーズは
穀物を元に模倣したデザインでした。

その形はどこか
未開発で未発達
素朴な人間らしさも自然らしさもある
しかし力強い美しさがあります。

そこに私は惹かれました。

そして今もカレンの方々は変わらず作り続けています。
きっと彼らのアイデンティティは消えていない。

そう感じます。



”普遍的な洗練”
時代を超えても人は自然に触れたいと思います。
美しい景色に、色鮮やかな野菜や植物
亡くなったジョージア・オキーフや
もう何年も前の映画や音楽
アンティークの古物達
今民藝が注目されているのもきっとそう

そこには
普遍的な洗練された魅力(美)がある
からだと思います。

無心の美
正直な美


”美しさ”
きっと色々な種類があると思います。

私の考える
普遍的な美しさ
そこを
追い求めていきたい(作り続ける)と思います。

大まかなこの三つの要素を
大事にしながら
元にしながら



続きます。







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久しぶりの独り言 ①「装いの定義」






大変ご無沙汰しておりました。


企画展も落ち着いた頃
無理矢理にでも一度立ち止まり
自分の中の疑問と
向き合おうと思いました。

というと聞こえが良いですが、
中々前に進めまない日々


どうしても
自分の中の「?」が消えない



”人はなぜ装い、飾るのか”
”人にとってジュエリーとは何か”
”なぜ自分は装うものを作るのか”
”私は何を伝えたいのか”


ここから
色々と「?」は派生していくのですが...


”装いと用の美(民藝)”
は相反するのではないか
交わる事はあるのか

などなど


ひとつひとつ心の整理
独り言としてここに書き残したいと思います。

どうぞお付き合い下さい。







ではまず
”装い”
について


ネットなどで定義や意味を調べると
出てくるのは

美しさや華やかさ、立派に見える様に手を加える事
富や権力の象徴など
他人の目を引く為の道具としての装い
宗教的道具として

ジュエリーはそこからうまれたんだろう。

宝石は最も解り易い道具


では
私もその定義に基づいたものを身につけるのか
作りたいのか

...


ここ何年興味が続いている民藝
民藝への私なりの解釈,定義
自然の中で生きていく上で必要なことの為に出来た美
日常必要とし人の生活に溶込み、作り手は無心で正直である



民藝や自分自身の理念、核となるもの
と装う事が相反してしまう


私は修飾したい訳ではない

むしろ
最近年を重ねる毎に
粉飾も修飾もしなくなった
ジュエリーの数も大きさも少なく小さくなった


う〜ん
ではなぜ装うものを私は身につけ
そしてつくるんだろうか
またこの問いが出てくる


民藝とは違い
生活や暮らしに決して直結しない装飾品

装い(飾る美)と民藝(用の美)
は正反対にいる様な気がしたんです。



では自分自身の中に見つけた”装う”の定義とは?

非言語の記号(メッセージ)
自分自身を伝える道具(自己表現、自己紹介)
アイデンティティ
自分自身に近い存在をするもの
最も近く寄り添うもの(溶込むもの)


という答えに至りました。



では
自分自身の理念、核とはなんだろう


続きます。








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